運命は神仏の手 2008/2/23

 

 人生にはツキの有るとき、また、ツキの無いときがある。何も努力せずに結果が出てしまう。努力したのに結果が残せない。という経験は誰にでもあるはずだ。自分自身に運が向いていようが、向いていまいが、努力し続けることだ。ここで自分の能力を疑ってはいけない。また、人生は短い。いくら自分に自信があっても転職を続けていたのでは、技術も何も身に付かない。これでは本末転倒だ。
 障害を乗り越えることが、運命を克服することになると、私は考えている。だが、若いうちは忘れやすいことがある。祖先を祭ることだ。簡単に言えば、正月、お盆、彼岸など、お墓参りをすることを忘れてはいけない。私自身も29歳で家を出てから、何度となく墓参りはしていた。祖先の霊に感謝の気持ちを込めてお墓には行ったものだ。
 この行動にも人生の運、不運を分ける鍵があるのではないだろうか?ついでだが書いておこう。日本人は多宗教というのか、無宗教というのか分からないが、仏壇の前で長々手を合わせている。手を合わせることを否定する気はない。だが、仏壇にお願いごとをしているのだったら、作法違いだ。他界して、ゆっくり休んでほしいはずの人に、願い事をするとはお門違いだ。願い事は神棚でするものだ。
 私の祖父母が浅草に住んでいたため、浅草寺にはよく行った。かなりいい年(見かけ60歳前後)の人が寺で孫に拍手を打つことを教えている。10代のときは驚いたが、最近は笑ってしまう。このような人はどのような人生を送ってきたのか知りたいくらいだ。が、自分の父親も似たようなものだった。
 このような宗教上の常識は、長い年月を経て伝わり、また未来へ伝えていかなければならないはずだ。知識のある人に、尋ねるしか知る方法はない。断っておくが私は特別宗教家ではない。あくまで常識として知識を有しているだけだ。この全ての知識が総合が、人生の結果として現れる。たとえば、守屋武昌、たとえば、三田佳子、数え上げればきりがないくらいだ。
 29歳で全ての技術を捨て、ゼロからスタートした。そして私の目指すものを一言で言った言葉がある。それは「大器晩成」である。若い頃の障害は、親自体が障害だった。家を出て13年後父親は他界した。ここで書きたいことは、いくら家を追い出されても、子供としての分を行っている事だ。
 実にこの父親は、典型的な反面教師となっている。好景気と共に上昇し、バブル破綻と共に事業が終了した事からも、自己努力での成功ではないことが良く分かる。事の大小の差はあるにせよ、守屋武昌、三田佳子と差のない晩年失敗型だ。
 私の尊敬する人に、稲盛和夫さんがいる。京セラグループの創始者だ。携帯電話のauなどがその傘下にはいっている。大事業家の稲盛さんですら、神仏を大事にしていた。いや大事業家だからこそ、たくさんの従業員を預かるからこそ、神仏に重大決断を正しく判断してほしかったようだ。自分の決断が、そのまま従業員の人生を左右してしまうからだ。
 つまり人間は自分だけを考えていてはいけないのだ。自分にかかわる全てのことを考えて生きなければ、障害は大きなものと成るだろう。