目線の位置を考える

2008年4月26日


 

 恋人はサンタクロースさん、コメントを頂きありがとうございます。気持ちを改めて書き続けたいと思うようになりました。

 いきなり個人的なことで、なんとも比較の仕様がないが、私は幼稚園前後の幼い子供に嫌われたことがない。この幼い頃の子供は人見知りを始めたり、大人と違い直感的な恐怖心を感じたりするのだろう。私自身も不思議に思うくらい人見知りする子供でも泣かれた事がないのだ。だが、私は意識的に気をつけていることがある。それは子供を見下さないことだ。よく母親が子供に向かい座って言い聞かせる姿を見る。目線の高さを合わせて話しかけることが重要だと考えているからだ。
 私自身高圧的な親に育てられてきた。自営業だったので仕事もしてきた。その時に一番感じていたのは上から見下す感覚だ。私は今でもその感覚が嫌いだ。今でも話す相手の目線に合わせているつもりだ。20歳を超えた大人であっても意識している。物理的に目の位置を合わせるのではなく、相手が精神的に理解できる言葉を使うようにするのだ。実はこれが難しい作業だったりするのだ。
 私の経験では同じような教育を受けていても、得意科目が違う子供がいるように、同じ言葉を喋っても理解してもらえない事が、たびたびあることに気がついた。人間の意思疎通の最大方法である会話が、空気に触れた瞬間に捻じ曲がってしまうのだ。表現はややおかしいかも知れないが、自分の発した言葉が相手に真直ぐ伝わらないことは誰もが経験しているはずだ。「誤解を生む」のはこのような現象からではないだろうか?
 内閣がどのような立派な発表をしても、社会保険庁や国土交通省のような不祥事があれば、発表された言葉は受け取り手の頭の中で割り引かれる。つまり相手の立場に立った言葉と行動、いわゆる言動が必要だと考えられる。
 大人になれば成るほど、この精神的目線の位置は重要だと考えられる。職場で上司であっても、より以上の高圧的態度は、人間関係を破壊してしまう、可能性がある。叱る、怒る、注意する、などの相手の行動への規制を促す場合私は、思いやりを持って接することを心がけるべきだ。これが自然と精神的目線の位置に変化すると考えている。
 もちろんどうしても相性の悪い部下もいるだろう。その場合時間が解決すると諦めるしかない。少なくとも感情に任せて憎しみをもって接してはいけない。「人(ひと)を呪(のろ)わば穴(あな)二つ」のたとえもあるように憎しみをもってはいけない。たとえ自分の誠意が通じなくても、精神的目線の位置を合わせて相手に思いやりをもって接していれば、必ず好転するはずだ。